2009年12月17日

江戸以前の漁業

瀬戸内海は縄文時代から今日に至るまで、多様な漁業の場となってきた。弥生時代には既にタコツボによるタコ漁が行われていたことも、出土物によって明らかになっている。

江戸時代には肥料に用いるイワシを獲る地引き網や船引き網漁が盛んとなった。またイカやアナゴやキス、エビ、ナマコなどを狙う手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁など、様々な網漁が行われていた。これらの漁法は瀬戸内海にとどまらず、房総半島などにも伝播した。また瀬戸内海の内部でも、紀州で考案されたイワシの船引き網漁法が真鍋島、宇和島、安芸草津など各地に伝播したことが知られている。

海賊船
鬼のパンツ
金時にんじんの雑記帳
虎太郎が一攫千金を追う
彩乃はスポーツ演習
自分の能力
潤子のブログ
心の安らぎ探し
水瓶座
赤い糸
大物を狙う一本釣り漁も江戸時代に発達した漁法である。これは主に潮流の早い瀬戸を中心に行われた漁法で、鯛、ハマチ、カレイ、サワラなどを対象とした。一本釣りの発達を促したのは、中国から輸入されるようになった天然のテグスの存在である。これを最初に一本釣り漁に用いたのは、現在の鳴門市にある堂浦の漁民であったが、この漁法が17世紀後半に現在の周防大島町にある沖家室島に伝播し、沖家室島は瀬戸内海有数の一本釣り漁の基地として栄えた。現在も大物釣り用の釣り針の基本的なデザインである「かむろ針」は沖家室島で考案されたものである。その他、佐賀関、音戸、三津浜、牛窓、雑賀崎などが一本釣り漁で有名な漁村である。

こうして獲られた高級魚は船の中の生け簀に入れたまま大坂まで運ばれ、高値で売却された。祇園祭の頃に旬を迎えるハモは活け締めにして京まで運ばれた。広島の牡蠣も江戸時代には関西に広く流通していた。

2009年12月01日

コガモ

コガモ(小鴨)は、カモ目カモ科の鳥類の一種でカモの仲間。名前は小型のカモの意。
ユーラシア中部・北部および北米大陸中部・北部で繁殖する。冬季はヨーロッパ南部、北アフリカ、中近東、南アジア、東アジア、北アメリカ中部から南部へ渡り越冬する。

日本では、冬鳥として全国に飛来する。全国で普通に見られ、市街地の河川や公園の池などでも観察される。中部地方以北の高原や北海道の湿原では、ごく少数が繁殖している。
カモ類の中では冬の渡りが早く、また春の渡りが遅めである。越冬中は群れで生活し、関東地方では 9月頃から 4月頃にかけて見ることができる。
体長34-38cm。翼開長58-64cm。雄の方がやや大きい。ハトより一回り大きい程度で、日本産カモ類の中では最小種のひとつ。

雄は頭が栗色で、目の周りから後頸にかけてが暗緑色、身体は灰色で側面に横方向の白線が入る。下尾筒は黒く、両側に黄色い三角の斑がある。翼は暗褐色だが、翼鏡は緑色。雌は全体に褐色で黒褐色の斑がある。下尾筒の両脇は白い。雄と同様に緑色の翼鏡が見られる。

アジアの海賊
アルプスの牧場
うたばんの生活
おしゃれな吉祥寺
お子様ランチ
ギャンブル馬鹿 
コーヒーの木
サンキュー
ズッコケ男道
タルトちゃん
嘴と足は黒い。
非繁殖期には、湖沼、池、河川、干潟などに生息する。淡水域に多い。越冬の終盤である2月末~3月につがいを形成し、繁殖地へ渡る。つがいを形成する前の11月~1月頃には、オスはメスに対して盛んにディスプレイ行為を見せる。繁殖期には、河川や湿地の周辺の草地などに生息する。

食性は植物食で、河川や湖沼などの水面から届く範囲の藻や水草などを食べる。夜間に採食することが多い。
繁殖形態は卵生。メスは草地の地上に巣を作り、4月下旬~7月上旬に平均8個産卵する。卵の平均サイズは45×33mmである。卵は抱卵開始から21~23日で孵化する。他の多くのカモ類と同様に、抱卵・育雛はメスのみで行う。雛は26-30日程度で親から独立する。

2009年11月27日

古代地中海世界の海戦で

古代地中海世界の海戦では、艦首の衝角を敵艦に当てて破壊する戦法や、船を敵に寄せてはしごを使って戦士を敵艦に乗り込ませる戦法などが取られた。艦船も人力で漕ぐトリエーレ(90t、120人乗り)から、やはり人力ではあるが更に大きいガレー船(300t、200人乗り)へと大型化していった。アテナイなどの都市国家では、海軍が運用する三段櫂船の提供は富裕な市民の負担とされ、自力で歩兵の兵装を揃えることができない貧困層が船の漕ぎ手となった。海軍力によるペルシア戦争の勝利は、これら貧困層の政治的発言力を増すことにつながった。
水瓶座
赤い糸
太陽にジャンプ
低脳主義
桃太郎君の日記
美しい名前
暮らし発見生活ネット
木枯らし一号
雄太は頑固一徹
両手をひろげて

6世紀頃から東地中海では、古代ギリシャ・ローマ以来の造船技術を受け継いだ東ローマ帝国(ビザンティン帝国)が、火炎放射器ギリシャの火を持つ戦艦デュロモイを擁して海上の覇権を握った。しかし、やがて7世紀にエジプト・シリアを征服して東地中海世界に参入したムスリム(イスラム教徒)の力が増し、シチリア島やマルタ島、イベリア半島にまでムスリムの支配が及ぶようになる。このイスラームによる覇権は、パクス・イスラミカと呼ぶ。キリスト教化された西ヨーロッパはムスリムとの通商を行わなかったため、古代以来の地中海全体を覆う海上通商路は分断された。

一方ヨーロッパの大西洋側では、北からヴァイキングと呼ばれるノルマン人たちの襲撃が及ぶようになっていたが、西ヨーロッパ各国はこれに対抗する海軍を発達させず、ほとんど押さえ込まれたままであった。ノルマン人の勢力は、大西洋のみならず、地中海のシチリア島にも及んだ。

2009年11月13日

五大紋

五大紋(ごだいもん)は、日本の家紋のうち、一般的に特に多く分布する藤、桐、鷹の羽、木瓜、片喰の5つの紋のことを指す。
これらを、いつごろに誰が何を基準にして定めたものかは不詳である。またこれらに、蔦、茗荷、沢瀉、橘、柏の5つを加えて「十大紋」と呼ぶ。

日本家紋研究所のデータでは、全国平均で最も多い占有率を示したものは「片喰紋」(約9パーセント)で、五大紋の内で最少の占有率は「桐紋」(約5パーセント)であったという。ちなみに、この日本家紋研究所調べの全国平均占有率の並びでは、上位から片喰・木瓜・鷹の羽・柏・藤、次に桐・蔦・梅・橘・目結の順である。

サイト「日本の苗字七千傑」の「都道府県別代表家紋一覧」には、特に多く使用されている家紋を、都道府県別に10個程度選出して表にまとめられている。それによると、藤、桐、鷹の羽、木瓜、片喰の紋がそれぞれ、46の都道府県の約半分、またはそれ以上において「代表家紋」としてランクインしている。
アルツハイマー病
クリスマス
スキー
ラフティング
鳥インフルエンザ
化学工学
パルクール
結膜炎
御節料理
ホームシアター

この5つの家紋が、特に普及している主な理由は以下の通り。

藤紋
藤紋は、藤の花や葉を図案化したものである。一般家庭での普及はあるものの、藤原氏流(97家)の使用例は、うち7家のみであるといわれている。
藤原氏系の流れで、名前に「藤」を入れた苗字(佐藤姓、加藤姓、斉藤姓など)を用いる家があり、その多くが藤紋を使っている。佐藤姓では、藤紋より源氏車紋を用いる者が多い。

2009年11月02日

電磁気学

電磁気学(でんじきがく)は、物理学の分野の1つであり、電気と磁気に関する現象を扱う学問である。工学分野では、電気磁気学と呼ばれることもある。

電磁気学は、これらの電磁的現象を電荷と電磁場の相互作用として説明する理論体系である。 電荷は物質に固有の物理量であり、物質と電磁場との結び付きの強さを表す量である。電磁場は、時空の各点が持っている物理量であり、物質間の電気的作用と磁気的作用を媒介する。

電磁場としては、スカラーポテンシャルとベクトルポテンシャルの組か、もしくは電場と磁場の組を考える。特にこれらの組を区別したい場合には、前者を電磁ポテンシャル、後者を電磁場と呼ぶことがある。電場・磁場は直接に観測が可能であるが、電磁ポテンシャルは観測によって一意に定めることができない。しかし、電場・磁場では説明できないが電磁ポテンシャルでは記述できる現象が存在する(アハラノフ=ボーム効果など)ので、電磁ポテンシャルの方が本質的な物理量であると考えられている。
新しいシャツ
真央のかわいい靴
神風特攻隊
人気スポーツ旅
水たまり
星の金貨
生活 おもしろ発見
生活をバックアップする情報
西遊記
青春の喜び

電磁場は電荷と電流(電荷の流れ)に力を及ぼす。この力をローレンツ力という。逆に、電荷・電流の存在は電磁場に影響を与える。電磁場のふるまい、および電荷・電流が電磁場に与える影響は、マクスウェル方程式で記述される。ローレンツ力とマクスウェル方程式は、電磁気学における最も基礎的な法則である。

2009年10月23日

1991年以前の学士の種類

1991年(平成3年)に、学位制度が改正される前までは、学士の種類は定められていた。

1878年(明治11年)に東京大学が定めた学士の種類は、法・理・文・医学士及び製薬士の5つであった。ちなみに、これらの学士号のうち東京大学製薬学科本科で授与される製薬士のみ特異な名称であるが、明治11年1回生9名が卒業、東京大学大学院薬学研究科によれば製薬士の称号を授与されたとされ、実際に製薬士号の授与は5回生で終了し全員34名に留まったとされる。

また、1991年(平成3年)の学士の種類の廃止時には、大学設置基準(昭和31年文部省令第28号)によって、次の29種類が定められていた。文・教育・神・社会・教養・学芸・社会科・法・政治・経済・商・経営・理・医・歯・薬・看護・保健衛生・鍼灸・栄養・工・芸術工・商船・農・獣医・水産・家政・芸術・体育学士。
揺りかご
涼風な夏
凜ちゃんの子供達
あしたの空
アンコール伝説
ウルトラマンファイヤー
おしんこちゃん地域のニュース
お父さんの誕生日
キラーストリート
コキンちゃん
サンタの大冒険
スパニエルくんの日記
ダンディハウス
とん吉のとんかつ
ハッピー・マンデー
ひなたのスポーツ観戦
フロンティア物語
マナの樹
やきそばマン
ローズマリー

ただ、1991年(平成3年)の学位制度改正によって、学士の種類を列挙して定めることをやめ、「学士(○○)」と括弧書きで専攻分野を付記することにし(「学士(法学)」など)、その専攻分野の種類も各大学等が自由に定められるようになった。
日本の大学における学士号の種類は報道当時で従前の29種類から580種類にまで拡大され、「カルチュラル・マネジメント学」「情報アーキテクチャ学」「人間環境マネジメント」など学科や学問ごとの学士号が増えた事例、または同じ学問領域でも大学によって微妙な名称の違いがある事例などが散見された。

2009年06月22日

スペンサーの学者が彼の関連をどのように

スペンサーの学者が彼の関連をどのようにダーウィンへ解釈するかにかかわらず、スペンサーは特に米国で、1870年代に、信じられないほど人気が高いことが分かった。エドワード・ユーマンズ(en:Edward_L._Youmans)、ウィリアム・グラハム・サムナー、ジョン・フィスク(en:John_Fiske_(philosopher))、ジョン・ウィリアム・バージェス、レスター・フランク・ウォード(en:Lester_Frank_Ward)、ルイス・H・モーガンと金ぴか時代の他の考える人のような著者がすべて、ダーウィンと同様、スペンサーへの露出の結果として社会進化論の類似の理論を展開した。

その考えが社会学にたくさんの影響をこれまでに与えている人類学者、ルイス・H・モーガンは、1877年の古典的な古代の社会で3つの時代を区別した。未開(savagery)、野蛮(barbarism)そして文明である。それらは、火、弓、未開の時代の陶器の利用。動物の家畜化、農耕、金属加工のような野蛮の時代。と、アルファベットと"書く"ことの文明時代。のような技術的な発明によって分類させられる。モーガンは、社会の進歩と技術進歩の間に結びつきを導入したのである。
感染症
ケーブルテレビ
インフルエンザ
バイオリズム
戯曲
天体
喜劇
真菌学
日本画
宇宙ステーション
地層の作り
神社案内
未知の宇宙
脳と神経
日本の重要文化財
下町東京
広島の歴史
不動産用語
サンタはどこ
牛の生涯


モーガンは、技術の発展を、社会の発展の背景にある力として見た。[3]つまり、社会の慣例の幾つかの、組織やイデオロギーといった社会の変化は、それらが技術の変化の始まりを持つ。モーガンの理論は、『家族・私有財産・国家の起源』の研究を仕事の基礎を置いたフリードリッヒ・エンゲルスによって有名になった。エンゲルスと他のマルクス主義者にとって、物質主義の要因(経済的、技術的)が人類の運命を形づくることにおいて、決定的であるそれらの信念を支持したたこともあり、この理論は重要である。

コントと並びもう一人の社会学の「父」であるエミール・デュルケームは、類似的、社会の進歩の両断論理(en:Dichotomy Dichotomy)の見解を開発した。機械的な団結から有機的な団結まで進行することに関して、彼が社会進化を明確にしたとき、彼の重要な概念は社会的連帯であった。機械的な団結で、人々は自足である。ほとんど統合が無く、そしてそれで軍事力行使と抑制が社会をまとめておく必要がある。有機的な団結で、人々はずっと統合化されていて、そして相互依存である、そして専門化と協力は大規模になる。機械的な団結から有機的な団結への進歩は最初に「道徳性密度」(いっそう複雑な社会的相互関係の展開)を増やすや否や第2の人口増加と増加する人口密度の上にそして仕事場で、第三に、増加する専門化に基づいている。デュルケームに、社会の進歩で最も重要な要因は分業である。

2009年06月05日

本家、領家、開発領主

開発領主(かいほつりょうしゅ)とは、平安時代中期以降、墾田開発をさかんにおこなって領地を確保した者の総称であり、元来は有力農民(田堵)である。彼らは国衙から田地の私有が認められたものの、その権利は危ういものであったため、開発した土地を荘園として受領層に寄進した。受領層は彼らを下司や公文などの荘官に任命し、その土地の実効支配を認める代わりに、一定の税収を受け取る。こうして荘園を持つようになった受領層を領家と呼ぶ。領家は次第に、国衙領を私領化するようになった国司と対立するようになり、自らの荘園をさらに権門勢家や大寺院に寄進し、保護を求める代わりに一定の税収を納めた。こうして荘園を集積した権門層や寺社を本家と呼んでいる。このようにして、平安後期には本家、領家、開発領主の各層から成る領主層が形成された。また、開発領主は、一方では在庁官人でもあり、国衙と結びつくことが有利な場合はそのまま国衙領にとどまった。
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平安中期以降、摂関政治にみられる藤原北家の官位独占などにより、中央政界からあぶれた下級貴族の多くが、地方へ下向した。開発領主はこれらの貴族と主従関係を結ぶことにより、荘園をめぐる紛争解決に役立てようとすることが多く、自らは武装して武士となり、また下級貴族のなかには、これらを武士団として組織して、その棟梁と呼ばれることも少なくなかった。これら武家の棟梁のなかから、やがて奥州藤原政権、平氏政権が生まれ、12世紀末葉には鎌倉幕府の成立をみた。

鎌倉時代では地頭の存在が知られるが、本来は地頭とは荘官の名称のひとつであり、文治の勅許の際にも、源行家・源義経追討を名目として荘園・公領から兵糧米を徴収する権限が与えられたにすぎず、土地の支配権を得たわけではなかった。また、その設置も当初は平氏没官領[1]に限られていた。

しかしながら、幕府に忠誠を誓った武士すなわち御家人は、この地頭職の補任ないし安堵というかたちで論功行賞その他がおこなわれ、荘園・公領における年貢の徴収や土地の管理、治安の維持にあたって現地支配の実権をにぎった。鎌倉時代を通じて地頭による荘園侵略がさかんにおこなわれ、荘園領主との間に土地に関する紛争が激化した。そこで荘園領主は、地頭請所の契約を結んで、荘園管理の一切を地頭にまかせるかわりに年貢の納入を約束させたり、下地中分のとりきめをおこなって、荘園の土地そのものを領主と地頭で折半したりした。しかし、この結果、荘園領主のねらいとはうらはらに、地頭の荘園支配はいっそう進んだ。

2009年05月01日

池田輝政

池田 輝政(いけだ てるまさ)は戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国池尻城主、同国大垣城主、同岐阜城主、三河国吉田城主を経て播磨国姫路藩主。姫路城を現在残る姿に大規模に修築したことで知られる。岡山藩池田家宗家初代。

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永禄7年(1564年)12月29日、織田信長の重臣・池田恒興の次男として尾張国清洲(現・愛知県清須市)に生まれた。のちに、信長に仕え、天正8年(1580年)の花隈城攻略の際(花熊城の戦い)には、その軍功により信長から感状を授けられた。天正10年(1582年)、本能寺の変で信長が明智光秀に弑されると、父兄と共に羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、同年10月15日、秀吉が京都大徳寺で信長の葬儀を催すと、輝政は羽柴秀勝とともに棺を担いだ。

天正11年(1583年)、父が美濃国大垣城主となると、輝政は池尻城主となった。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで、父の恒興と兄の池田元助が討死したため家督を相続し、美濃国大垣城主13万石、ついで岐阜城主13万石を領する。その後も紀州征伐や越中征伐、九州征伐など秀吉の主要な合戦の大半に従軍した。小田原征伐後の天正18年(1590年)には、三河国の内、宝飯・八名・渥美・設楽4郡(東三河)において15万2000石に加増され、吉田(現・愛知県豊橋市)城主となった。また、在京の粮米として伊勢国小栗栖の庄を与えられた。文禄の役に際しては吉田城に留まり東国警衛の任にあたった。

2009年04月17日

女系天皇

女系天皇(にょけいてんのう)とは、日本において母のみが皇統に属する天皇を指す呼称であり、また、「母系天皇」と称されることもある。実際にはこの理由のみで即位した天皇は歴史上一度も存在しない。

なお、「じょけい」と呼ぶのは間違い。対義語の男系も「だんけい」ではなく「なんけい」と呼ぶ。[要出典]

語句の類似から、単に女子の天皇を指す女性天皇と混同されることも多いが、天皇家の血筋についての「女系天皇」と、天皇個人の性別についての「女性天皇」とは異なる概念である。その天皇自身が男か女かという性別とは関係がなく、概念上女系男性天皇と女系女性天皇の両方が存在しうる。

『古事記』、『日本書紀』やその他歴史書の表向きの記載によれば、日本の皇統は初代神武天皇から現在の第125代今上天皇まで男系の血筋のみで続いてきたとされる(いわゆる「万世一系」、ただし信憑性については諸説あり、高群逸枝などの民俗学者は古代が母系制であったことを主張している)。万世一系の立場からは、女系天皇は即位しても神武天皇以来の皇統に属さず、その結果として日本史上初の王朝交代が生じる、ということになる。

女系天皇 [編集]
「天皇の男系子孫のみが皇位を継承できる」というのは、明治期にそれまでの継承経緯とされるものを元に成立したものである。

一般に女性天皇は過去に8人10代存在するとされ、その内の6人8代は6世紀末から8世紀後半に集中するが、いずれも天皇または皇子を父に持つことは事実である。また、未婚(生涯独身)か天皇・皇太子の元配偶者(未亡人、再婚せず)かのいずれかであったとされている(下掲系図を参照)。当時も、皇族女子が非皇族男子と結婚すれば必ず皇籍を離れねばならず、その間に生まれた子が皇位を継ぐことはなかったとされる。女性皇族と非皇族男子との間の子に皇位継承権がなかったとの事実も、あったとの事実もまた確認されていないが、当時女性皇族を母に持つ人間は「宮腹」と呼ばれ、普通の貴族より高貴な存在と目されていた。また、欽明から推古、斉明にかけての系譜にも少なからず改ざん・造作が行われたとの説もあり、系譜自体も慎重な検討が必要であるとする説もある。

それ以前の皇統については、折口信夫の主張する中天皇論等を考慮すれば、女系天皇(純然たる女系あるいは男系でなく双系という意見もある)であった可能性も少なくないとの説もある。

明治以前は、天皇が在位していない期間に天皇として役割を果たした神功皇后を天皇とみなしていた。ほかにも、飯豊皇女や春日山田皇女なども政治を司ったという意味で天皇ではなかったかの考え方もある。さらに徹底して、折口信夫の中天皇あるいは民俗学者がいうヒメ・ヒコ制で歴史を整理すれば、『古事記』・『日本書紀』の矛盾の多くが解決し、巨大古墳の被葬者の治定も容易に定まることになるとする意見もある。

なお、第38代天智天皇、第40代天武天皇、第42代文武天皇など女性天皇の子が即位した例もあるが、その子の父親すなわち女性天皇の夫もまた天皇・皇太子である(下掲系図を参照)。また、歴史学界からは相手にされない説であるが、鎌倉時代の『一代要記』、南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に記載の天武の年齢に基づくと、天武は天智より4歳年長であると解釈できることから、一部の研究家により第40代天武天皇の父親は第34代舒明天皇でないとする仮説(佐々克明、小林恵子、大和岩雄ら)が提唱されており、その場合父親が誰であろうと母親が第37代斉明天皇であったことが皇位継承の条件であったことになるとの主張もあるが、これは仮説であり正式なものとはされていない。しかしこの説によるならば、その系譜から第38代天智天皇らも男系ではなく女系の天皇と見なすこともできる。『古事記』、『日本書紀』にはさまざまな造作が加えられているとされるが、その問題の1つには天皇が男系で継承されてきたように記した点である。古代、氏族としての帰属は父系を原則としていたのは事実としても、生活習慣は基本的に母系制であり、家の継承が常に父系的に行われていたとは考えられないのではないだろうか、ということである(その後の時代も婿養子という制度は残されている)。

現在の日本においては、結婚した夫婦は民法上どちらかの姓を名乗り、その子もその姓を名乗ることとなっているが、現状でそのほとんどが男子(父)の姓を名乗っている。姓をもって家の継承と見なすならば国民においても男系継承が一般的であるといえるが、婿養子あるいは娘の子が跡を継ぐことも少ないながら存在し、かつての女系継承の残滓ともいえるものも見受けられる。

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