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近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆

豊臣秀吉が没し、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井村・寺戸村、葛野郡梅小路村・西院村、紀伊郡吉祥院村にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰し、1603年(慶長8年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂氏・安倍氏)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂氏の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。

この動きを得て、土御門氏勢力は、1682年(天和2年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、再興家の幸徳井家賀茂氏を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、さらにその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧りみられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている。

各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原流、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。

1684年(貞享元年)には、幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の1755年(宝暦五年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。

その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。
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近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師 [編集]
大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、土御門晴雄本人の死去によりこの案が取り上げられることはなかった。

逆に、陰陽寮からの改暦提案を受けた明治政府首脳の間では、「富国強兵を目して西洋的な先進技術の導入を進めるにあたり、陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心となる畏れが強く、陰陽道を排除すべきである」とする西洋文明導入論者に加え、「天皇親政を行うにあたっては、臣下が天皇を差置いて実権を行使する蛮行や、天皇の行動を指図するような非礼はまかりならず、ましてや日本古来の神道があるにもかかわらず外国(中国)由来の技法である陰陽道がまかり通ることなど許容しがたい」とする純神道論者ないし攘夷論者の主張が共鳴して、陰陽道を排斥する意見が多数を占めた。また土御門晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭土御門晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。

その期に乗じて明治政府は1870年(明治3年)に陰陽寮を廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学・天文台、ないし海軍の一部に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。1872年(明治5年)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道をつかさどる官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道をさらに神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。

明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。

第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については九星占術を基本とする東京都上野区の株式会社神宮館による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。

現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道ないし陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道ないし陰陽師の権威の面影はなく、土御門家が旧領若狭の福井県おおい町(旧名田庄村)に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽家として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみである。

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2009年04月02日 16:51に投稿されたエントリーのページです。

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